小学校2年のとき、初めて半田ごてを握った。夏休みの宿題に電子工作を作るよう親にすすめられたためである(家業が電器屋さんだった)。作品は「電子オルガン」。金属の板を鍵盤状に並べて、テスターのプローブのようなもので板を触ると音が出るというものである。「ラジオの製作」か「初歩のラジオ」かどちから忘れたが、電子工作雑誌の製作記事を見ながら作った。いま考えると小学校の夏休みの宿題にこんなものをもっていくとはイヤな子どもだったような気がする。
それ以来「ラジオの製作」と「初歩のラジオ」は中学後半まで購読していた雑誌である。
小学校3年のとき、ナショナルのワンボードマイコンキット「KX-33」を買ってもらう。プロセッサはナショナル独自の4ビットチップで、RAMは256バイトだった(と思う)。7セグメントLEDが4つと、0〜Fまでの数字ボタン16個と、(データ|アドレス)(リード|ライト)などの機能ボタンと、スピーカーがついていた。ほんとはシャープの「MZ-40」(愛称「マイコン博士」)が欲しかったが、家がナショナルのお店だったのでしょうがない。でもこのマシンはかなり使い込んだ。楽譜から音符を入力して音楽演奏させたり、説明書に出ていたゲームを入力したりして遊んだ。ただ、まだ自分でプログラミングしようとはしていない。学校にも自慢げにもっていったりした。やっぱりイヤな子どもである。
小学校4年のとき、はじめてひとりで秋葉原に行く。雑誌の電子工作記事を読んでは、トランジスタだの抵抗だのコンデンサだののパーツを買いに行った。よく行った店はラジオセンター2Fの...店の名前は忘れたけど階段をあがってすぐ左の店である。4本(か5本)のカラーコードが印刷されている抵抗が、なんとなくきれいで好きなパーツだった。
なお私が教わった抵抗のカラーコードの覚え方。
色 | 数値 | 語呂合わせ |
黒 | 0 | (黒い礼服) |
茶 | 1 | (小林一茶) |
赤 | 2 | (赤いにんじん) |
橙 | 3 | (第3の男) |
黄 | 4 | (岸恵子) |
緑 | 5 | (嬰児(みどりご)) |
青 | 6 | (青二才のろくでなし) |
紫 | 7 | (紫式部) |
灰 | 8 | (ハイヤー) |
白 | 9 | (ホワイトクリスマス) |
(金と銀の覚え方は知りません)
今でもソラで言えます。覚え方には色々バリエーションがあるようです。他のパターンをご存じの方は教えてください。
関係ないが、秋葉原からの帰りに、亀有駅の近くの本屋でドラえもんの単行本を買って、さらにマクドナルドでハンバーガーを買って、読み食いしながらバスを待つのが習慣だった。さらにどうでもいいことだが、初めて買ったドラえもんの単行本は第10巻である。なぜ第1巻ではなくいきなり第10巻なのかは今となっては覚えていない。
話を戻す。当時の秋葉原では無線機をあちこちの店で売っていた。現在無線機を売っている店を探すのは困難である。そんな影響もあって、ぜひ無線の免許も取りたいと思っていた。「ラジオの製作」を見ていると、「小学1年生が電話級(現在の4級)をとった」というような記事がたまに出ることがあった。私もそれを見てとってやろうと思いたつことが何回もあったのだが、結局めんどくさくて取らなかった。結局大学4年のときに4級を取得した。もっと早くとっておけば良かったと思う。いま局免を申請してもJで始まるコールサインはもらえない。
小学校4年の後半か5年の前半ごろだったと思うが、このころからコンピュータに興味を持ち始める。雑誌の広告にはいろんなワンボードマイコンが出ていた。東芝のBS-80・NECのTK-80・富士通のLkit-4/8・日立のH8(だった かな)。このころは8ビットマイコン全盛で、プロセッサには8080を使って いたものがほとんどだったと思う。ユーザーインターフェースも進化しつつあった。7セグメントLEDからCRTに、16進キーボードからアルファベットや数字を含むキャラクタ型キーボードが現れてきた。
小学校5年くらいから秋葉原にパーツを買いに行くついでに、必ずラジオ会舘7FのBitInn(NECのショウルーム)に通うようになった。TK-80にディスプレイとかフルキーボードとかカセットテープとかを増設したものでゴルフゲームが走っていた(たぶんTK-80BS)。ひとりでプレイしていたところ、まわりに人が集まってきてしまった。当時はまだマイコンはマニアのものだったので、その中に小学生が混じっていたのがめずらしかったのかもしれない。みんなの注目の中ホールインワンを出してしまい、まわりの人から「どんな強さで打ったのか」「何番のクラブで打ったのか」という質問攻めにあった。このころのゲーム(このゲームだけか?)はほとんど乱数性が無かったようで、同じ条件でプレイすると同じ結果が得られたように思う。
このころはまだプログラミングというものがどういうものか、分かっていない。
以降しばらく同じような状態が続く。
小学校の卒業アルバムに載っている私の作文
題名: 修学旅行での夜
ぼくたちは、夏休みに、修学旅行で裏磐梯の乙女沼という小さい沼の近くにある、白雲荘という旅館でとまった。
初めの日は、白雲荘に来る前に五色沼をハイキングしてつかれていたので、早く夜にならないかなぁと思っていた。
そして、キャンプファイアが終わりやっと眠る時間になった。
みんながふとんに入り、電気を消してスタンドをつけると、とつ然堀切君が、
「眠れない夜、風がまぶしくて。」
と歌いだした。
すると深井君も、
「ア一ア二ア一二三四……。」
と歌い出した。
みんな大笑いした。
でも大きい声を出し過ぎて、先生におこられてしまった。
それにその夜は、時計がなくてよく分からなかったけれど、三時間ぐらいしか眠れなくてかぜをひいてしまったけれど、とても楽しい夜だった。